深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義5.クマんモンのご先祖

八代の妙見さん

 熊本県八代市には奇妙な祭りがある。「八代妙見祭」とよばれている祭で、この地区の河童渡来伝説と考え合わせると「クマんモン」のルーツを探る糸口が隠されている。 妙見祭は八代神社の秋の例大祭であり、11月22日と23日に行われる。なかでも23日には獅子や笠鉾(かさぼこ)、亀蛇(きだ)が参加する神幸行列があり、特に神社近く水無川(みずなしがわ)の砥崎河原(とさきかわら)で行われる勇壮な亀蛇の演舞は迫力満点である。この行事は、今から約1300年前(奈良時代)に中国から妙見神が亀蛇に乗って八代に上陸したという故事にもとづいて行われている。この亀蛇については後述することにして、まず妙見さんのことについて触れておこう。

 八代神社は妙見宮(みょうけんぐう)とも言い、親しみを込めて妙見さんと呼ばれる。「妙見」から明らかなように、神道と仏教の宮寺であるが、明治4年(1871年)、明治新政府の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)により、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)や国常立尊(クニノトコタチノミコト)を祭神にして社名を八代神社と改めた。この天之御中主神という神様は、「古事記」では、天地開闢(てんちかいびゃく)の際に高天原に最初に 出現した神様である。日本書紀では古事記とは異なって国之常立神(クニノトコタチノカミ)となっている。よく知られている天照大神よりも古い神様で我が国の最古神である。

妙見さん 竹原宮
図1.八代神社(妙見宮) 図2. 竹原神社(竹原宮)

 図1が妙見さん、「八代妙見祭」で知られる八代神社、図2が竹原神社(竹原宮)である。まず、八代神社(妙見宮)は、八代ICで国道3号線に出て九州自動車道の下をくぐった所で国道を斜め方向に左折すると約500mの場所にある。竹原神社(竹原宮)は、新八代駅と八代駅のほぼ中間にあり、八代駅の北北東約900m、鹿児島本線の線路南すぐに鎮座している。現在の八代神社からは北西に約2Kmのところである。この竹原地区は、現在の八代海岸より5~6km奥まった内陸地であるが、当時はここまで海域が拡大していて八代港の岸壁であり、もともとこの地こそが、妙見由来碑にあるように、妙見神が渡来した竹原の津という港の跡である。

 そもそも妙見信仰は北極星や北斗七星を崇めるものである。道教(どうきょう)に由来する古代中国の思想では、北極星は天帝(天皇大帝)と見なされたから、天地開闢(てんちかいびゃく)時の始祖神である天之御中主神や国之常立神を祭神としたわけである。
しかし時代的背景もあった。それは、明治政府が進めた神仏分離政策である。つまり、新政府は皇祖神信仰を進めるための神仏習合(しんぶつしゅうごう)を廃して神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)政策を推し進めた。現在の八代神社もまたその策に沿って無難な二柱の最古皇祖神を祭神にしたというわけである。ちなみに、竹原神社の祭神は天之御中主尊である。しかし市民にとっては、最古の皇祖神を祀る八代神社より、妙見菩薩仏教における信仰対象として存在している妙見さんの方が親しまれ崇められ尊ばれている。なぜかと言うと、境内に建立されている図3に示すような妙見由来碑の正面の冒頭には次のようなことが書かれているからである。

 「妙見神は聖なる北極星・北斗七星の象徴なり。妙見神の来朝 天武天皇の時代の白鳳9年(680)、妙見神は神変をもって、目深・手長 ・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり」

  少し分かりやすく書き換えると、妙見神は聖なる北極星であり、北斗七星を象徴とした天空の中心をつかさどる「妙見さん」は、天武天皇の白凰9年(680年)の秋、中国明州(今の浙江省)の寧波から目深検校・手長次郎・足早三郎の三人に形を変え、亀蛇の背に乗って海を渡り、八代郡土北郷八千把村竹原津に上陸された、の意味である。要するに、今から千三百数十年も昔の7世紀、中国浙江省寧波市あたりから海を渡って八代の港にたどり着いた人があったということである。

妙見由来碑 妙見菩薩立像
図3.妙見由来碑 図4.木造妙見菩薩立像

1) 妙見さん由来碑の謎

 図4が妙見妙見菩薩立像である。妙見像はいずれも強面で勇ましいお姿であるが、この妙見像は穏やかな顔形である。この妙見さんが八代港にたどり着いたのは、夏なのか冬の時期なのか、いつ、どのような方法で八代海にたどり着いたのだろうか。また、この碑文の内容は、果たして、人吉球磨地方とどのような関わりがあるのであろうか。九州三大祭の一つである八代妙見祭やこの地方に伝わる河童伝説と合わせて、もう少し掘り下げてみる。
なお、中国明州(寧波:ねいは)とは、現在の中華人民共和国浙江省の寧波市のことで、唐代の開元年間(713~741年)には明州(めいしゅう)と呼ばれていた。寧波市は上海の西、杭州の東に位置し東シナ海に面し北九州に最も近い。
この妙見神の伝来には、中国伝来説と百済王(くだらのおおきみ)帰化説がある。中国説では、681年に中國の明州(寧波)から八代の竹原の港に着岸されたとある。百済王説では、百済国王の斎明と第3皇子の琳聖(りんしょう)太子が帰化されたとある。二つの説とも、この八代の地に3年間仮座の後、 約30km離れた下益城郡豊野村(宇城市豊野町)に移られ、約90年の歳月を経て771年に再び八代の地に移られたとなっている。鎮座までに90年の歳月を要したということは、天照大神が現在の伊勢地区に鎮座するまで各地で遷座を繰り返したことに似ており、渡来人が先住民に受け入れるまでの道のりの険しさを想像させる。以上のことから、どうやら妙見さんは、7世紀の中国からの渡来人であることには間違いはなく、大変めずらしい。なぜ珍しいかと言うと、6~7世紀、朝鮮半島からの渡来や、特に朝鮮南部からは戦争難民という形での渡来人が急増した時代だからである。この頃の渡来人は大和地方に居住して、中央政界において大いに活躍したことは周知のことである。

 妙見さんの一行が中国明州(寧波)から東シナ海を渡って八代の竹原港にたどり着かれたとすれば、その季節は、冬?夏?いつだったのだろうか。

冬場 夏場
図5.左: 冬場の潮流変化(2月) 右: 夏場の潮流変化(8月)

 図5は2013年の冬場の2月と夏場の8月における黒潮の天草灘あたりの潮流変化である。図の出典は、気象庁の九州周辺海域の旬平均海流図であるが、濃い赤色の海域ほど潮流速は大であり、黄色から水色になるほど流速は小さいことを示すとのことである。このように、8月の黒潮の分流は五島列島の南を東へ大きく流れ込み天草灘にも流れ込んでいる。しかし、2月の冬場では天草灘への分流はない。したがって、妙見さん一行は夏場の海流を利用して命がけで有明海や八代海域まで航海し、着岸を目指したと想定できる。

 2016年7月、国立科学博物館は3万年前の航海実験を行った。与那国島から西表島へ向かっての手作り筏での実験である。古代人も黒潮に乗って移動して来たという想定での実験であったが、フロンティア精神もなく、命懸けでもない実験はうまくいかなかったようである。妙見一行の渡来時期が1800年前の弥生時代だとすれば、舟は3万年前のような筏ではなかったはずである。

 ところで、妙見さんは目深・手長 ・足早に変身されてやって来たとあるが、いったいどのような人であったのだろうか。
一説では「目深」はキジ、「手長」はサル、「足早」はイヌで、桃太郎伝説のお供に類しているという。また、一説では風貌・容姿であるという。しかし、享保15 年(1730年)に書かれた「妙見宮実紀」などでは三柱の神様の名は「目深検校」「手長次郎」「足早三郎」とあるそうである。
検校(けんぎょう)とは、中国では官名、7世紀の日本では盲人の最高位役職名であり、平安・鎌倉時代には寺院や僧尼を監督する職名であった。したがって、変身された三柱の神様のお1人は僧侶であったかも知れないし、「手長」と「足早」には二郎、三郎がついていることから兄弟だったとも考えることができる。このことは後述するように、僧侶が黄河流域に棲むたくさんの河童を日本へ連れてきたという話にも符合している。 先にも述べたように、八代神社(妙見宮)は、もともと妙見菩薩を本尊とした寺から国常立尊や天御中主神へと習合発展してきたものである。この「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということ。「菩薩」とは、「悟りを求める修行者」のことだが、「妙見菩薩」は仏法や仏教徒を守る守護神:護法神(ごほうしん)のことで、寅さんの「男はつらいよ」で有名な柴又の帝釈天(たいしゃくてん)や大阪の四天王(してんのう)などがそれである。仏さまを守る菩薩さま達が神社に本地仏(ほんじぶつ:神々の化身)として祀られている例は多く、熊野本宮などはその例である。

2) 妙見信仰と河童渡来人 亀蛇は古代船

 前述した妙見由来碑によると、妙見さんは亀蛇という乗り物によって八代の竹原の港(現在の八代市竹原町)に上陸されたとある。その亀蛇とは何なのだろうか。妙見祭に出てくる亀蛇は図6のように、甲羅の形や文様、長い首や尻尾までの体形からは「かめ」のようであり、地元では「ガメ」と呼ばれている。しかし、顔面と頭部の様相は怪獣そのものであり、首が2.5m、胴の大きさは畳4枚ほどあり、全体の重さは200kg、旧大映の特撮映画に出てきた「大怪獣ガメラ」といった方がふさわしいかもしれない。

亀蛇 亀它
図6.亀蛇の模型(八代神社境内の展示場) 左:正面 右:側面

 亀蛇は文字通り亀と蛇であるから、中国の伝説上の神獣であり、四神の1つであるところの玄武(げんぶ)である。しかし、亀は甲羅があってそれらしいのであるが、頭部の顔相からは蛇と言うより龍の顔である。

 妙見信仰によると、妙見菩薩の神使(しんし)は、北の守護神である玄武とされており、一般には亀が象徴となっている。この神使というのは神様の使いで、神意を代行して現世と接触する動物のことである。神々によってその動物は異なるが、十二支動物のほか鹿、狐、鶏など20種類ぐらいの魚や動物がいる。夫婦岩(めおといわ)で知られる三重県伊勢市二見町にある二見興玉神社(ふたみおきたま)の主祭神は猿田彦大神で、この神さまの神使は蛙である。夫婦岩を眺める海岸や境内にはたくさんの蛙像が置かれている。伊勢神宮や熱田神宮の神使は鶏である。奈良の春日大社はシカである。

 妙見さんはこの亀蛇(玄武)に乗って中国の寧波(現在の浙江省)からやってきたというのであるから、乗り物は、船であることに間違いはない。渡来の時期は680年であるから、今から1340年も昔のことである。その頃の船の形はどんなものであったのだろうか。実は亀蛇の顔相そっくりの船首像をもつ古代船がある。図7はノルウエー・オスロのヴイキング船博物館に展示されている8世紀頃のヴイキング船(左)と船首像の龍蛇(右)である。この船首像は龍蛇となっており亀蛇の顔相とよく似ている。中国の船は竜骨構造を基本としているが、バイキングの船も、船体には竜骨が敷かれ、波切りをよくするためそり上がった構造をしており、船の舳先にはこのような守護神をつけている。このことから妙見さんが乗って来た亀蛇とは船のことであり、バイキング船のように船体に竜骨が敷かれ、波切をよくするためにそりあがった船であったと想像できる。

バイキング船 船首像
図7.左: バイキング船   右: 船首像 (オスロ・ヴイキング船博物館)

 妙見さん一行が中国浙江省の寧波あたりから竜骨船に乗り八代の竹原の港に上陸されたのは今から1340年も前である。そのころの八代は「鬼の岩屋」として知られる谷川古墳群(八代市岡町)が作られていた頃である。あさぎり町免田東には「鬼の釜」古墳があり、「鬼の窟」「鬼の唐門」など「鬼」の着く古墳は各地にある。これは、すでに定住していた縄文・弥生時代からの先住民にとって、渡来人は「鬼」に見えたのではないだろうか。しかし、これらの人達、クマんモンの先祖達は妙見さんよりもずっと前、いつごろ、どこから移住してきたのか、このヒントを与えてくれる言い伝えが八代にはある。

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3) 呉人は「河童」にされた!?

 その伝説とは八代の河童渡来伝説のことである。そのことを書いてある「河童渡来の碑」を図8に示す。球磨川は八代市内で二つに分かれるが、北側が前川、南側が南川と呼ばれる。その前川にかかる前川橋のたもとに碑はある。八代城跡の南約500mの所にあり、この場所も一度は訪ねたい場所である。

河童渡来碑
図8.「河童渡来の碑」(八代市本町2丁目)

 碑には、「この地は千五、六百年前、河童が中国方面より初めて日本に来て住み着いたと伝えられる場所で、碑の石材は三百五十年来の橋石でガラッパ石と呼ばれ、ある日、いたずら河童が付近の人々に捕えられ、この石がすり減って消えるまで(ちなみに筆者の試算では、ひと抱えもする石が磨滅するには約40億年はかかる、ただし、40億年もの間、石が風化せず残っていたとしての話)、いたずらはしないと誓い、年に一度の祭を請うたので、住民はその願を聞き入れて、祭を五月十八日と定め、今でもオレオレデーライタ河祭と名付けて毎年祭を行っている」と記されている。今はどこにでもある親水川岸であるが、この場所は徳渕(とくぶち)の津といわれ、古くから海外への貿易船を出してにぎわった港であった。碑文のなかにある「オレオレデーライタ」は呪文か経文のような不思議な文句であるが、一説によると「呉人呉人的来多」つまり、「中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」という意味だそうで、これが定説のようである。

 「呉」という国は中国の古代国家であるが、ややこしいことに二つの時代に存在する。一つは、春秋時代の呉であり、紀元前585年- 紀元前473年、今から約2500年前、長江の河口付近にあった国で「越」という国と争っていた。長江の河口付近とは現在の蘇州周辺であり、この周辺の土地を「呉地」といい、住んでいる人は「呉人」と呼ばれていたそうである。事実だとすれば、先ほどの「オレオレデーライタ:呉人呉人的来多」が真実味をおびてくるし、八代への渡来人の上陸時期が極端に早まることになる。

 もう一つの呉の国は、三国志で有名な魏・蜀・呉の三国時代の「呉」で、西暦222年 – 280年、今から約1800年前にやはり長江以南の流域にあった国である。先の「呉人呉人的来多」の呉人がこの三国時代の呉の国から来た人であるならば、今から約1800年前の弥生時代ということになり、この時代の遺跡は八代地方にも存在する。江戸時代(延享3年、1746年)の俳人であり作家であった菊岡沾凉という人が書いた「本朝俗諺志(ほんちょうぞくげんし)」という本には八代の河童のことが次のように記されている。

 「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになり、一族は繁栄してその数九千匹になった。その頭領を九千坊(くせんぼう)と呼ぶようになったが、河童どものいたずらが激しく人々を困らせた。加藤清正はこれを怒り九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。これには河童も降参して、久留米の有馬公(藩主)の許しを得て筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった」。

 この文章の加藤清正が云々は時代的に合わないので後世における付け足しであろう。しかし、球磨川沿いに多くの河童、つまり、よそ者の渡来人が棲みつき、先住民との争いごとが絶えなかったことは、河童どものいたずら、とか筑後川に移り住んだ、という文言から理解できる。

4) 河童の墓

 河童像が鎮座する八代の薩摩街道の一角、十一里木跡や札の辻番所跡に立つ「徳淵の津・札の辻・河童渡来の碑」説明看板には次のようなことが書いてある。

「この辺りは、・・・また、仁徳天皇の時代に九千匹の河童が中国より泳いで渡ってきた上陸地点と伝えられ、「河童渡来之碑」があります。・・・」

 仁徳天皇の在位期間は4世紀とされているが、これは『古事記』や『日本書紀』に記述された在位期間を機械的に西暦に置き換えた場合の年代であり、考古学的には仁徳天皇がこの時代の人であるか否か確証はない。したがって、この仁徳天皇の時代というのも、三国時代の呉の時代に合わせた後世の記述であろう。
ところで、河童とは何者であろうか。河伯(かはく)が日本に伝わり河童になったとされ、「かっぱ」の語源という。河伯は中国神話に登場する黄河の神さまである。河童神話では、河伯は人の姿をしており、亀や竜、または竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜や亀に変身するも人頭魚体であるらしい。元々は憑夷(ひょうい)という人間の男であるという。河童がヒョウスベと呼ばれる所以もこんなところにあるのかも知れない。

 河童が渡来人だとすれば、なぜ渡来人を河童という妖怪に仕立ててしまったのだろうか。河童とは何かという論争の中の一説に、民俗学的アプローチとして河童の先住民族説がある。日本に住み、後からにやってきたヤマト民族によって滅亡させられた先住民族についての記憶が、「河童」という形で残っているという見方である。筆者は逆ではないかと考える。つまり、河童は「ヤマト民族によって滅亡させられた先住民族」ではなく、「ヤマト政権基盤の先祖が河童と称する民族によって滅ぼされた」のである。万世一系(ばんせいいっけい)の皇祖神信仰において、皇祖が渡来人であってはならないし、渡来人が大和政権の構築に貢献したなどとは記録にとどめることはできなかったと考えられる。

 神武天皇が日向を立ち大和を征服したとき、大和地方の先住民を鬼とか土蜘蛛(つちぐも)と呼んだ。土蜘蛛は有尾人で、人にして人に非ずとの表現をしている。征服者や勝者はいつの時代も従属しない反逆者を鬼や妖怪や悪者に仕立ててしまうのである。以前に述べた人吉球磨以南の熊襲(くまそ)民族もしかり、である。

河童の墓
図9.「河童の墓」 (相良村大字川辺廻り)

 後世、河童呼ばわりされた大陸や朝鮮半島からの移住者・渡来人は球磨川を遡って人吉球磨盆地を目指し定住するようになる。
その証が相良村にある河童のお墓、図9である。場所は、球磨郡相良村大字川辺廻り。ここは球磨川の支流である川辺川のほとりで相良三十三観音、廻り(めぐり)観音、仏教で説く六道の一つ地獄道に迷う人を救済してくれる聖(しょう)観音御堂の近くである。脇に立つ案内板「廻り河童伝説」には次のように書いてある。

 「河童の棲む淵で馬を行水させていたところ、河童が馬を引きずり込もうとして尻尾を引っ張った。ところが馬に陸に引き上げられてしまい、馬の持ち主に捕まり家の柱に捉えられてしまった。それを見た女中が可哀想にと、縄を解いてあげたところ、その日から、鮎などの魚が炊事場に届けられるようになった。長い間続いていましたが、ある時からそれがふっつりと途絶えてしまった。河童も老いて死んでしまったのだろうと思って供養のために墓を建立した・・」。

 大分県の中津市にはお坊さんになった河童もおり、円応寺というお寺の墓地には戒名のあるお墓もある。天草の「河童来多」の地、天草市栖本町の馬場から河内地区までの街道には多くの河童像が設置され「河童街道」として親しまれている。河童の墓がある相良村のキャラクターは「サガラッパ」。相良村では河童サミットも開催の記念碑も立っている。昔、百太郎溝で溺れて死んだ子供はガラッパに引き込まれたとか大人は言っていたが、河童にしてはいい迷惑である。

 

  <話のまとめ>
鹿児島県枕崎市の真西、約7キロメートルの所に、東シナ海に突き出た薩摩半島がある。その半島先端の北側に坊津(ぼうのつ)港がある。この港は、かつて遣唐使船の寄港地として、また大陸への玄関口として栄えた当時の國際港であった。この「坊津」という名前も、日本への仏教伝来期の538年頃、百済に仕えていた日本人の日羅という僧侶が、仏教を広めるため来日し、ここに坊舎を建てたことに由来している。坊津の港から北上して八代海(不知火海)に入れば八代の竹原港(現在の八代市竹原町:JR八代駅と新幹線の新八代駅の中間)までは150キロ余りである。

 日羅の来日は6世紀の話であるが、3世紀にも八代に渡来して来た人の話がある。中国の三国時代、呉の国(3世紀)が晋(西晋)に敗れ、多くの難民が倭国へ亡命移住したという説である。その説の真偽が1999年、中国の江蘇省と福岡県太宰府の遺跡から出土した人骨のDNA分析結果で一致するここと分かり、事実であることが証明された。

 八代市徳渕の津に建立されている「河童渡来の碑」にある呪文のような不思議な文句「「呉人呉人的来多 : 中国の呉の国からたくさんの人がやって来た」が、これらの時代の渡来人のことを指しているものかどうかは明言できないが、「火の気の無い所に煙は立たぬ」である。

                         
<本節の参考資料>

   1)図4.木造妙見菩薩立像(重文) 所蔵:読売新聞社

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